⑦御座への招き(マルコ16・19、使徒1・9)~統治者として主の栄光を示す~
復活後のイエスは、弟子たちと40日を過ごした後、弟子たちの目の前で天に上がり、神の右の座に着きました。
神によって統治者としての正統な位置に招かれ、栄光を受けたのです。
勝利者として歩み、最後まで走り抜いた人々が最後に得る招きとは、地上での人生を終えて、天の栄光の座へと導かれる招きです。
天では勝利者としての栄冠と、天に積まれたあなたの宝と、そして「良くやった。忠実なしもべだ」とねぎらって下さる主イエスが待っています。
地上でのどんな富も比較対象にすらなりません。
ただしこの7番目のステップで天に上がって栄光を受けるのは、人生の最後を迎えるときだけです。
もし地上でさらに用いられる場合は、この段階を象徴するような霊的権威のアップグレードへと招かれます。
会社での昇進や、霊的ミニストリーの刷新など、あなたの人生で明確な統治権が確立し、神の栄光が現されることがこのステップとなります。
⑥豊かな命への招き(ヨハネ12・24)~死と葬りと復活~
3年半にわたってイスラエル全土で御業を行った主は、エルサレムでそのまま王となることもできました。群衆も(少なくともある時期は)それを望みました。
しかし世の考える勝利と神の考える勝利は違います。
イエスは絶頂期に十字架につき、死にました。
神の御心に叶った価値ある働きを充分に行った次に、聖霊はなんとすべてを手放して死ぬように招いたのです。
しかしその命令に従って、死んで、葬られた後に、主イエスは天地の全権威を持った王として復活しました。
3年半の活躍だけでも、歴史上の王の一人として名は残せたかもしれません。
しかし死・葬り・復活を通ったので、キリストは永遠に王の王、主の主として神の国を収めるのです。そして私たちの救いがもたらされたのです。
これが豊かな命への招きです。
⑤証明された働きへの招き(ルカ4・14-19)~神が備えた活躍の場へ~
荒野を終えた主は、宣教を開始し、3年半にわたり神の国を伝えました。
そこでは神の御業が起き、福音が語られ、人々が神に立ち返りました。言葉と力によって、イエスが天から遣わされた方だということが人々に対して証明されていきました。
神によって整えられた器が、その実力を発揮して実証していくとき、それが「証明された働きへの招き」です。
しかしイエスの地上での活躍を見るとき、その働きは、意外にも限定的なものです。
3年半という期間、イスラエルという空間、特に12弟子に特化された弟子育成、などです。
キリストは、父なる神に命じられた小さな働きに忠実だったので、世界を変える価値ある実を残したのです。
④誘惑からの勝利への招き(ルカ4・1-2)~荒野での試練~
奇妙なことに、聖霊の力に満ちたイエスはまず、宣教ではなく荒野へと導かれました。
これは聖霊が導いたことです(ルカ4・1)。
荒野とは、自分の力が一切通じない場です。何も頼りにするものがない場です。
しかし聖霊はそのようの場に主を招き、主をさまざまな誘惑との葛藤にさらしました。
誘惑とは、神の方法から外れて自分の方法で幸せを得るようにと迫る力です。神が与えた「霊」ではなく人のわがままな「肉」で反応するように差し向ける惑わしです(ガラテヤ5・16-21)。
主は40日間の断食の最後に訪れたサタンの誘惑に対し、御言葉を用いて完全な勝利を収めました。
多くの信仰者は聖霊の力に満たされたことに満足し、すぐにミニストリー団体を立ち上げたり、影響力のある活躍の場を求めたり、神の「教会」なのに世の「業界」と同じ方法で目的を達しようと躍起になります。
しかし聖霊の招きは、そうではないのです。
③油注がれた祭司への招き(ルカ3・21-22)~聖霊の力を受け取る~
イエスが次に姿を現すのは、バプテスマのヨハネのもとで洗礼を受けるときです。このとき聖霊は鳩のようにイエスに下りました。
主が洗礼を受けた年齢(30歳)は、イスラエルでは祭司が任命されて油を注がれる年齢です。
油注ぎとは、神の聖なる奉仕に就くため世から分けられ、聖められることを意味します(これを聖別といいます)。
主が聖霊を受けたのは、霊的な油注ぎであって、公式に神の国を伝えるミニストリーを開始するための力を得たということです。
30歳になって聖霊を受けるまで、イエスは何もしるしや奇跡を行っていません。
イエスは天から下ってきた神の御子でしたが、一方で、地上では人間として訪れたのです(ただし、私たちと違って、罪なき完全な人です)。
私たちの人生の模範である主は、聖霊の力を受けることで、霊的な祭司職へと招かれたのです。
②二重の責任への招き(ルカ2・49-52)~神が与えるくびきを負う~
少年時代(12歳)のイエスはあるとき、エルサレムの神殿に残り、教師たち(律法学者たち)の前に知恵を披露していました。
捜しに来た母マリヤに対し、イエスは言います。「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」(ルカ2・49)。
別訳では「わたしが父の仕事をしているのを知らなかったのですか」という意味です。
天の父なる神のもとに留まり、その仕事(御心・計画)を行うことはイエスの責任です。
しかし地上の両親が迎えに来たとき、イエスは逆らわず一緒に「ナザレに帰って、両親に仕えた」(ルカ2・51)のです。
地上の親への責任もイエスはおろそかにしません。
イエスは双方への責任を果たしながら、「神と人とに愛され」(ルカ2・52)ながら成長しました。両方との正しい関係を持っていたのです。
神の国にも出世コースがあることをご存じですか?
会社で社長の椅子を狙うことではありません。政界で権力を得ることでもありません。それらも悪くありませんが、もっと価値あることがあります。
イエスを信じる弟子たちにとって、個人的なビジョン(目指すべき最終形)とは、キリストに似た者(Ⅱコリント3・18、ローマ8・29)となることです。
これは別の角度から見ると、神の国の価値観に従った勝利を収める者になる、ということです。
勝利者とは神の国の赤ん坊ではなく、成熟した跡取り息子・娘であり、王イエスと共に天と地を治める者たちです(エペソ1・10-11)。
このコンセプトを知らないままの信仰の人生は、ゴールの分からないマラソンレースに出場するようなものです。
それでは迷走の果てに、疲れ果て、倒れこんでしまうでしょう。