ヨシュアの軍勢が割礼を受けたのは、約束の地に入った直後です。
いわば、これから占領すべき敵地に入った直後です。
割礼を受けると、その後しばらくの日数、傷口は痛み、満足に動くことができません。
嫌でもしばらくは静かにしている必要があります。
民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。(ヨシュア5・8)
敵地で、いつ攻撃されるか分からない緊迫の中で、彼らは静まったのです。
傷口が癒える前に攻撃を受けたらひとたまりもありません(創世記34・24-25)。
心の割礼
「悔い改め」の概念を深く悟るには、割礼(かつれい)について知らなくてはなりません。
旧約聖書のヨシュア記を読むと、ヨシュアの軍勢は、ヨルダン川を越えて約束の地に入ったあと、神の命令によって、すぐに割礼を受けさせられました。
そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。(ヨシュア5・2-3)
旧約の時代、イスラエル民族の男子たちが神の選びの民として、神との契約の象徴として受けたのが割礼です(創世記17・10-11)。
ヨシュアの軍勢の多くは、まだ割礼を受けていなかったので、主は改めて命じたのです。
イエスが荒野での40日の試練を終えて、ミニストリーを始めたとき、そのメッセージは「神の国(天の国)」についてのメッセージでした。
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4・17)
よく読むと、神の国とセットで語られているのは「悔い改め」です。
神の国に入るためには、悔い改めが欠かせません。
悔い改め(メタノイア)は自分の勝手で気ままな思考パターンを、神の御言葉によって矯正されることです(ローマ12・2)。
それは同時に、あなた自身の思考をも安息させる(休ませる)ことにつながります。
悔い改め、というミニストリー
神にとって究極の安息日となるのは、来るべき千年王国であることを学びました。
けれども同時に、神は今日この日にも、安息日の休みがあると言っています。
神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、
「きょう、もし御声を聞くならば、
あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」
と語られたのです。
もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
(ヘブル4・7-9)
この御言葉をじっくり読んでみましょう。
ヨシュアは約束の地に民を引き入れたとき、たしかに神に安息を与えました。
これは2番目の安息である「約束の地」という安息でした。
けれど、神はそのあとで「別の日のこと」も話しました。
今の時代が終わり、千年王国が始まるのが、いつであるか、それは誰にも分からないと聖書でイエス自身が明言しています。
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。(マタイ24・36)
イエスの再臨の日時を特定して語る教えは、すべて偽物です。
ただし聖書では、再臨前の出来事として、いくつかの指標が書かれています。
その中でも最大の指標は何でしょうか?
イスラエルの再建でしょうか?
天然災害の続発でしょうか?
地域紛争や民族紛争でしょうか?
千年王国
神は天地を創造し終えて、安息日を迎えました。
エデンの園には、神の安息の栄光が満ちていました。
しかしこの安息は長く続きませんでした。
アダムとエバの罪によって、神の創造の完成形は早くも失われてしまったのです。
神にとっての安息日は、もう無くなってしまったのでしょうか?
エデンの園で、終わってしまったのでしょうか?
いいえ、聖書はそうは言っていません。
安息日
神に安息を与えるためのミニストリーの2番目は、約束の地に入ることでした。
それは①備えられた「良い行い」をすること(神からの召命に応えること)、②あなたの魂を通してイエスに現れてもらうこと、でした。
では、神に安息を与えるための3番目のミニストリーを学びましょう。
3番目のキーワードは、「安息日」です。
安息日について、私たちは分かっているようで分かっていないことが、多々あります。
まず世界で最初の安息日をよく見てみましょう。