イエスが私たちの魂に進軍するということは、別の角度から考えると、キリストご自身にとっては私たちの魂こそが勝ち取るべき約束の地だということです。
あなたが自分の魂をキリストに委ね、素直に征服されればされるほど、私たちも外側にある約束の地(=人生の活躍の舞台)を征服していけるのです。
つまり、あなたの内側と外側で、同時進行で二重の征服が起こるのです。
パウロは自分の力の源泉は、彼の内側で働くキリストの力だと書いています。
このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。(コロサイ1・29)
あなたの内に住むキリストを、約束の地(あなたの魂)に入れてあげましょう。
キリストに全面降伏しましょう。
もし私たちの魂が全面降伏するなら、私たちを通して征服者であるキリストの姿が現れます。
あなたの中でキリストが現れるとき
旧約聖書に書かれた約束の地の物語は、新約聖書の時代の私たちにとって、神の召しに応えて実行することの象徴です。
そして「約束」の地なので、神が「必ず実現させる」とあらかじめ約束しているわけです。
イスラエル人が地を占領したとき、御言葉はこう語っています。
こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。
主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。
主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。
(ヨシュア21・43-45)
主の約束がすべて実現した、と書かれています。
同じ約束が新約時代の私たちにもされていることを、私たちは信じなくてはなりません。
荒野から約束の地へ
「自分だけ安息する」と「神を安息させて、その中に自分も入る」の違いが良く分かる例があります。
「荒野」と「約束の地」の違いです。
イスラエルの民が40年間荒野を巡っている間、彼らは天から毎朝降ってくるマナを食べました(出エジプト16・35)。
彼らは働く必要もなく、ただ毎朝、わかりやすい奇跡を体験できました。
しかし、これはイスラエルの民が生き続けるための、いわば延命処置のための恵みです。
彼らは安息できますが、神は安息できません。
約束の地に向かった新世代、ヨシュアの軍隊の第一の関門(?)は、ヨルダン川を渡ることでした。
彼らの前には、川が横たわっていたのです。
そこからさらにさかのぼること40年、かつてイスラエルの民はエジプトから脱出する際、モーセに率いられて海を渡ったことがありました。
あのときは先に海が割れて、それを見てから人々は一歩踏み出しました。
先に神の奇跡を見て、それから行動したのです。
しかし今回は40年前とは違います。
新世代は、一歩踏み出したときに、神の川が割れて、奇跡が起きたのです。
約束の地に入れなかった民、神からの召しに不従順だった民の、もう一つの特徴を見てみましょう。
彼らは過去の経験や居場所(エジプト)に固執していました。
エジプトを脱出した後も、ちょっとでも困難があるとすぐ「エジプトは良かった」と愚痴をこぼします。
また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。
(民数11・4-5)
彼らが入る予定であった約束の地は「乳と蜜の流れる地」であり、肥沃で豊かな土地であることが前もって教えられていました。
しかしそこへの旅程でのわずかな試練すら、彼らにとっては不満でした。
「良い行い」とは?
では、新約聖書の時代である今、私たちにとって神が備えた「約束の地」はどこにあるのでしょうか?
私たちはどこに踏み出せばよいのでしょうか?
御言葉に聴きましょう。
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2・10)
神は、私たちのために「良い行い」を「備えて」いるのです。
どういう意味でしょうか?
約束の地
神に安息を与えるミニストリーの一番目は、「神の家」を用意することでした。
新約聖書の時代である現在は、神の家とは、
・イエスを信じた個人
・教会
の二つを意味しました。
では、神に安息を与えるミニストリーの二番目を見てみましょう。
キーワードは「約束の地」です。