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以下はカテゴリーもしくは月別「神を安息させる方法」で絞り込んだリストです。
2011年4月15日
 
まとめ

 「神を安息させる」とは、一見すると不思議で理解し難いコンセプトかもしれません。

 この連載を読む前までは、このコンセプトに納得いかない読者も多かったでしょう。

 けれども今、こうして神への安息のミニストリーをすべて網羅してみると、それがとても聖書的で、神の御心に沿ったものであることが分かります。
 
 ここで、改めてポイントを振り返ってみましょう。

 神を安息させるためのミニストリーのキーワードは、

①神の家
②約束の地
③安息日
④なだめのかおり

 でした。
2011年4月14日
 
新約時代のいけにえ

 あなたが肉の思いを十字架につけて死ぬとき、あなたはキリストの香りを放ちます。

 しかしもう一つ、あなたがなだめの香りを神に放つ方法があります。

 それはあなたの内なる態度だけではなく、実際の行動でもいけにえを捧げていくことです。

 新約聖書は現代の私たちが捧げる「いけにえ」について教えています。

 もちろん、罪の赦しのためのいけにえはすでに十字架のイエスで完了しています(ヘブル10・14-18)。

 しかしそれとは別に、礼拝者として日々成長し、神との交わりを深め、キリストに似た者として成熟していくため、私たちはいけにえを捧げる必要があるのです。

 いけにえ無しの礼拝などありえません。
2011年4月12日
 
 神を安息させるなだめの香りは、いけにえがもたらす香りです。

 「キリストの香り」(キリストを知る知識の香り)は、あなたが伸び伸びと大活躍するときに起こるのではありません。

 ダイナミックメッセージや奇跡の業やファインプレーが炸裂するときの爆風ではありません。

 そうではなく、むしろ圧迫や誘惑や試練の中で静まるとき、すなわちあなたが「自分」というものに対して死に切ったときに醸し出すものです。

 あなたの周囲でこの香りを嗅ぐ人々は、二種類の反応を示すでしょう。

 そこに「死」を感じる人と、「命」を感じる人です。
2011年4月11日
 
キリストの香りを放つ

 イエスは十字架で、もっとも素晴らしい香りを放ちました。

 しかしそれで終わりではありません。

 じつは今の私たちにも、神を安息させるためのなだめの香りを放つミニストリーがあります。

 御言葉を見てみましょう。

 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。
(Ⅱコリント2・14-16)
2011年4月 7日
 
究極のかおり

 旧約時代のいけにえは人間たちの罪を「覆う」だけで、「とりのぞく」ことはできなかったので、神はついに究極の「なだめのかおり」となるいけにえを用意しました。

 それは自分の子であるイエス・キリスト自身です。

 イエスは私たちが神と和解して救いを受けるため、十字架につきました。

 一切の罪のない、完全で究極のいけにえです。

 これは神への「香ばしいかおり」となりました。

 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
(エペソ5・2)

 キリストの命が十字架で捧げられたとき、神はついに天地創造以来の救いの計画を完了し、ご自分の力を休め、安息に至りました。
2011年4月 6日
 
なだめのかおり

 神に安息を与えるためのミニストリーの3番目は、神のための安息日を用意することでした。

 それは①将来訪れる千年王国で完全に現れますが、②同時に、私たちの日々の個人的な悔い改めによっても段階的に現れるものでした。

 では、いよいよ最後、4番目のポイントを見ていきましょう。

 神に安息を与える4番目のキーワードは、「なだめの香り」です。

 なだめの香り、とは何でしょうか?
 
 それは、私たちが神に動物などのいけにえを捧げるとき、天の御座に立ち上る、甘い香りです。

 旧約時代、神へいけにえを捧げると、神はその香りをかいで、安息しました。
2011年4月 4日
 
 ヨシュアの軍勢が割礼を受けたのは、約束の地に入った直後です。

 いわば、これから占領すべき敵地に入った直後です。

 割礼を受けると、その後しばらくの日数、傷口は痛み、満足に動くことができません。

 嫌でもしばらくは静かにしている必要があります。

 民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。(ヨシュア5・8)

 敵地で、いつ攻撃されるか分からない緊迫の中で、彼らは静まったのです。

 傷口が癒える前に攻撃を受けたらひとたまりもありません(創世記34・24-25)。
2011年4月 1日
 
心の割礼

 「悔い改め」の概念を深く悟るには、割礼(かつれい)について知らなくてはなりません。

 旧約聖書のヨシュア記を読むと、ヨシュアの軍勢は、ヨルダン川を越えて約束の地に入ったあと、神の命令によって、すぐに割礼を受けさせられました。

 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。(ヨシュア5・2-3)

 旧約の時代、イスラエル民族の男子たちが神の選びの民として、神との契約の象徴として受けたのが割礼です(創世記17・10-11)。

 ヨシュアの軍勢の多くは、まだ割礼を受けていなかったので、主は改めて命じたのです。
2011年3月31日
 
 イエスが荒野での40日の試練を終えて、ミニストリーを始めたとき、そのメッセージは「神の国(天の国)」についてのメッセージでした。

 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4・17)

 よく読むと、神の国とセットで語られているのは「悔い改め」です。

 神の国に入るためには、悔い改めが欠かせません。

 悔い改め(メタノイア)は自分の勝手で気ままな思考パターンを、神の御言葉によって矯正されることです(ローマ12・2)。

 それは同時に、あなた自身の思考をも安息させる(休ませる)ことにつながります。
2011年3月29日
 
悔い改め、というミニストリー

 神にとって究極の安息日となるのは、来るべき千年王国であることを学びました。

 けれども同時に、神は今日この日にも、安息日の休みがあると言っています。

 神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、
  「きょう、もし御声を聞くならば、
 あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」 
 と語られたのです。
 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
 (ヘブル4・7-9)

 この御言葉をじっくり読んでみましょう。

 ヨシュアは約束の地に民を引き入れたとき、たしかに神に安息を与えました。

 これは2番目の安息である「約束の地」という安息でした。

 けれど、神はそのあとで「別の日のこと」も話しました。
2011年3月25日
 
 今の時代が終わり、千年王国が始まるのが、いつであるか、それは誰にも分からないと聖書でイエス自身が明言しています。

 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。(マタイ24・36)

 
イエスの再臨の日時を特定して語る教えは、すべて偽物です。

 ただし聖書では、再臨前の出来事として、いくつかの指標が書かれています。

 その中でも最大の指標は何でしょうか?

 イスラエルの再建でしょうか?

 天然災害の続発でしょうか?
 
 地域紛争や民族紛争でしょうか?
2011年3月23日
 
千年王国

 神は天地を創造し終えて、安息日を迎えました。

 エデンの園には、神の安息の栄光が満ちていました。

 しかしこの安息は長く続きませんでした。
 
  アダムとエバの罪によって、神の創造の完成形は早くも失われてしまったのです。
 
 神にとっての安息日は、もう無くなってしまったのでしょうか?

 エデンの園で、終わってしまったのでしょうか?

 いいえ、聖書はそうは言っていません。
2011年3月22日
 
安息日

 神に安息を与えるためのミニストリーの2番目は、約束の地に入ることでした。

 それは①備えられた「良い行い」をすること(神からの召命に応えること)、②あなたの魂を通してイエスに現れてもらうこと、でした。

 では、神に安息を与えるための3番目のミニストリーを学びましょう。

 3番目のキーワードは、「安息日」です。

 安息日について、私たちは分かっているようで分かっていないことが、多々あります。

 まず世界で最初の安息日をよく見てみましょう。
2011年3月18日
 
 イエスが私たちの魂に進軍するということは、別の角度から考えると、キリストご自身にとっては私たちの魂こそが勝ち取るべき約束の地だということです。

 あなたが自分の魂をキリストに委ね、素直に征服されればされるほど、私たちも外側にある約束の地(=人生の活躍の舞台)を征服していけるのです。

 つまり、あなたの内側と外側で、同時進行で二重の征服が起こるのです。

 パウロは自分の力の源泉は、彼の内側で働くキリストの力だと書いています。

 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。(コロサイ1・29)

 あなたの内に住むキリストを、約束の地(あなたの魂)に入れてあげましょう。

 キリストに全面降伏しましょう。

 もし私たちの魂が全面降伏するなら、私たちを通して征服者であるキリストの姿が現れます。
2011年3月17日
 
あなたの中でキリストが現れるとき

 旧約聖書に書かれた約束の地の物語は、新約聖書の時代の私たちにとって、神の召しに応えて実行することの象徴です。

 そして「約束」の地なので、神が「必ず実現させる」とあらかじめ約束しているわけです。

 イスラエル人が地を占領したとき、御言葉はこう語っています。

 こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。
 主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。
 主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。
(ヨシュア21・43-45)

 主の約束がすべて実現した、と書かれています。

 同じ約束が新約時代の私たちにもされていることを、私たちは信じなくてはなりません。
2011年3月16日
 
荒野から約束の地へ

  「自分だけ安息する」と「神を安息させて、その中に自分も入る」の違いが良く分かる例があります。

  「荒野」と「約束の地」の違いです。

 イスラエルの民が40年間荒野を巡っている間、彼らは天から毎朝降ってくるマナを食べました(出エジプト16・35)。

 彼らは働く必要もなく、ただ毎朝、わかりやすい奇跡を体験できました。

 しかし、これはイスラエルの民が生き続けるための、いわば延命処置のための恵みです。

 彼らは安息できますが、神は安息できません。
2011年3月14日
 
 約束の地に向かった新世代、ヨシュアの軍隊の第一の関門(?)は、ヨルダン川を渡ることでした。

 彼らの前には、川が横たわっていたのです。

 そこからさらにさかのぼること40年、かつてイスラエルの民はエジプトから脱出する際、モーセに率いられて海を渡ったことがありました。

 あのときは先に海が割れて、それを見てから人々は一歩踏み出しました。

 先に神の奇跡を見て、それから行動したのです。

 しかし今回は40年前とは違います。

 新世代は、一歩踏み出したときに、神の川が割れて、奇跡が起きたのです。
2011年3月11日
 
 約束の地に入れなかった民、神からの召しに不従順だった民の、もう一つの特徴を見てみましょう。

 彼らは過去の経験や居場所(エジプト)に固執していました。

 エジプトを脱出した後も、ちょっとでも困難があるとすぐ「エジプトは良かった」と愚痴をこぼします。
 
 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。
(民数11・4-5)

 彼らが入る予定であった約束の地は「乳と蜜の流れる地」であり、肥沃で豊かな土地であることが前もって教えられていました。

 しかしそこへの旅程でのわずかな試練すら、彼らにとっては不満でした。
2011年3月 8日
 
「良い行い」とは?
 
 では、新約聖書の時代である今、私たちにとって神が備えた「約束の地」はどこにあるのでしょうか?

 私たちはどこに踏み出せばよいのでしょうか?

 御言葉に聴きましょう。

 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2・10)

 神は、私たちのために「良い行い」を「備えて」いるのです。

 どういう意味でしょうか?
2011年3月 7日
 
約束の地

 神に安息を与えるミニストリーの一番目は、「神の家」を用意することでした。

 新約聖書の時代である現在は、神の家とは、

 ・イエスを信じた個人
 ・教会

 の二つを意味しました。

 では、神に安息を与えるミニストリーの二番目を見てみましょう。

 キーワードは「約束の地」です。 
2011年3月 4日
 
教会も「神の家」

 私たち一人ひとりの体は、神が作った、神の住まいです。

 しかしさらに言えば、新約聖書にはもう一つ、神ご自身が建て上げる大事な神の家が登場します。

 神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(Ⅰテモテ3・15b)

 教会です。

 教会とは、神の家なのです。

 「けど神様は、人間の作った建物には住まないのでしょう?」

 と言う人もいるかもしれません。
2011年3月 3日
 
神の霊が宿る宮

 旧約の時代、神は人の手で作った宮には住まず、名を置くのみでした。

 では、神が実際に住み、地上で安息する家はどこにあるのでしょう?

 神ご自身が作った建物は、どこにあるのでしょう?

 それこそが新約の時代に生きる、私たちに関わる問題です。

 じつは、神の家はあなたのごく身近にあります。

 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(Ⅰコリント3・16)

 あなた自身です。
2011年3月 2日
 
神の家

 
聖書を紐解くと、神に安息していただくために私たちができることがいくつもあります。

 その中でも最初にすべきこと、神に安息を与える一番目の要素は、神の家を用意することです。
 
 旧約聖書でダビデは、神との親しい交わり、リラックスのひとときを愛しました。

 ダビデは、神がいこいの場を求めていることを知っていたので、神の「安息の家」を建てることを計画しました。

 ダビデ王は立ち上がって、こう言った。「私の兄弟たち、私の民よ。私の言うことを聞きなさい。私は主の契約の箱のため、私たちの神の足台のために、安息の家を建てる志を持っていた。私は建築の用意をした。(Ⅰ歴代28・2)
2011年3月 1日
 
 今日から、「神を安息させる方法」について書いていきます。

 まず、このタイトルを読んだだけで、びっくりする人もいると思います。

 「神を安息させるとは何事だ! 神は疲れることもないし、休む必要もない。人間とは違う全能の神だ!」

 その通りです。

 「神は人間の助けなど必要ない!」

 もちろんです。

 「神を安息させる? 何と高ぶった考え方だ! 何様のつもりだ!」

 おっしゃる意味は分かります。

 が、ちょっと待って下さい。
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