神の家族
神の国のチームについて、多く学んできましたが、最後に、もっともシンプルで本質的な定義を紹介します。
教会は、家族です。
「家族のようなもの」ではなく「家族」です。
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。(エペソ2・19)
ときに私たちは、聖書を読んでいて、微妙な誤解をします。天の神を「父のような方」だと思ってしまうことです。
それは間違いです。
父のような方ではなく、「父」です。
3種類の教会
聖書には数多くの教会が登場します。
地域にある教会もあれば、霊的な意味で語られる教会もあります。今でも世界中に、さまざまな教会があります。
けれども、聖書が語る教会の概念を純粋に当てはめていくとき、すべての教会は大枠で3つに区別できます。
①普遍的な教会(ユニバーサルチャーチ)...マタイ16・13-19、エペソ3・15
過去・現在・未来の、キリストの弟子たちは、神の家族として一つです。
すでに地上から去って天国にいる人々、そして地上にまだ残っている人々、両方を合わせてひとつの教会です。キリストが再び戻ってくるとき(千年王国のはじまるとき)、天にいる聖徒たちも復活して地上に帰ってきます(Ⅰテサロニケ3・13)。
この、過去・現在・未来を通じてたったひとつの教会を、通称、普遍的な教会(ユニバーサルチャーチ)と呼びます。
天と地をつなぐ権威
神の国のチームは、天と地をつなげる権威を持っています。
十字架から復活したイエスは、天と地のすべての権威を父から受け取りました(ピリピ2・9、エペソ1・20-21、マタイ28・18)。
そしてイエスは、弟子たちを全世界に遣わしました。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20・21)
ですから、キリストの弟子たちは、天の権威を託されています(エペソ1・22)。
この権威は、天の御国の鍵、とも呼ばれています。イエスはこれを「つなぐ・解く(禁じる・赦す)」という表現で説明しました(マタイ16・19、18・18)。
当時、この「つなぐ・解く」という表現は、学者や祭司が使いました。
3つの役割
世界にはたくさんの教会があります。
貧しい国の路上で死んでいく人々をケアする教会、
首長たちと組んで街の変革に取り組む教会、
秘密警察に追われながら聖書を運ぶ教会、
夫婦カウンセリグや子育てセミナーを行う教会、
フルオーケストラバンドで礼拝する教会、
宣教師を世界中に送る教会、
24時間ひたすら祈り続ける教会
どれも教会です。
教会は、別名「キリストの体」といいます。チームの「頭」がキリストだからです。(エペソ1・22-23)。
その活動は、シンプルに分ければ、3つの枠に括られます。
3つの完成形
神の国のチームの完成形は、三位一体の神(父・子・聖霊)のそれぞれの視点から見ることができます。
①父なる神から見ると...成長を遂げた子供たちです。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです(エペソ1・5)
この御言葉で「子」と訳されている言葉は、「成熟した子」という意味で、父の仕事を受け継ぐ後継者のことです。
チームの完成形とは、神の計画・目的を知って、それを実行する人々の集まりとなることです。
自己実現ではなく神実現に生きて、世界を変えて行く、キリストの弟子たちです。
彼らは神の子の確信と誇りに満ち、試練や困難を乗り越えて、神の恵みによって勝利を収める「勝利者」たちです。
神の仕事を受け継ぎ、それを行うことが人にできるのでしょうか?
できます。
そのお手本が、まず最初に勝利者となって父なる神の権威を託されたイエス・キリストです。
キリストは神の家族の長男で、私たちはそれを真似する弟・妹たちです(ローマ8・29、Ⅰペテロ2・21)。
神の最高傑作
サッカーの世界では、クラブチームが有名な選手にオファーするためには、莫大な移籍金が必要です。
神の国のチームも、メンバーを集めるために移籍金が支払われました。
その移籍金は、一流サッカー選手どころの比ではありません。
イエス自身の血(命)が、その移籍金です。
罪に支配されていた人々を贖う(あがなう=買い戻す)ため、イエスは十字架で命を捧げました。
ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです(Ⅰペテロ1・18-19)
イエスの十字架は、個人個人を救うためでもあり、同時にチーム全体を買い取るためでもあったのです。
ところで、世に潜む強力な敵のひとつは、宗教です。
もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。(コロサイ2・20-21)
宗教は崇高で、世俗とは対極にある、と考える人がいます。しかし宗教的な生き方も、この世の生き方の一つです。
世俗的と宗教的は、じつは表裏一体です。
ある家に兄弟がいました。
弟はルールからはみ出した不良タイプで、親のお金を奪って逃走します。
兄はルールばかり気にする優等生タイプで、外見だけ良い子ぶって、心の壁を建てます。
両極端ですが、根っこの問題は同じで、親との関係がうまくいかない機能不全です。
たまたま行動パターンが右か左かに分かれるだけです。
聖書にもこのような家庭が登場します(ルカ15・11-32)。
グーグルやスターバックスよりもはるか昔、イエス・キリストはすでにミッション・ステイツメントを掲げていました。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません(マタイ16・18)
イエスにとって、教会を建て上げることはミッションでした。
「岩」とは聖書では神の確かさ・堅固さの象徴で、ここではイエス自身のことです。
教会はよく誤解されます。
建物?
大統領選挙の票田?
ボランティア団体?
宗教団体?
世界遺産?
どれも違います。
「教会とは何か」を本当に知っている人は、ごくわずかです。
けれども、もしそれを正しく知って、イエスの計画に参加する人は、神から特別な恵みを受けます。
これこそ、奥義です。