他人ではなく、自分を吟味する
あなたは、あなたの隣人がキリストに似ているかどうかを調べる必要はありません。
あなたの夫、または妻を調べる必要はありません。
あなたの牧師を調べる必要もありません。
そもそも、あなたが調べ上げたところで、その人は何も変わりません。
あなたは他人を変える力は持っていません。
あなたが調べ、変えることができる相手は、あなた自身だけです。
「あの人はどれくらいキリストに似ているだろうか?」ではなく、「自分はどれだけキリストに似ることができただろうか?」だけを常に吟味しましょう。
③手紙の中で
しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。(Ⅰペテロ4・16)
ペテロの手紙の中にも「キリスト者」という言葉が登場します。
彼は弟子たちをキリスト者と呼んでいたのでしょうか?
いいえ、よく読むと、これはペテロ自身の表現ではありません。
「迫害者たちから『キリスト者』と呼ばれて苦しむなら」という内容です。
キリスト者とは、迫害される者たちです。
②アグリッパ王
するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。(使徒26・28)
使徒パウロはこのとき、祭司や律法学者たちに訴えられて、牢につながれ囚人となっていました。
理由は、イエスの復活を主張したからです(使徒25・19)。
アグリッパ王の前でも、パウロはイエスの復活を力強く証しました(使徒26・23)。
牧師や伝道者が刑務所を慰問して囚人へ伝道する話は現代でもよく聞きますが、じつは囚人側から伝道するほうが、より聖書的です(マタイ10・17-19、使徒7章)!
あなたの変化を認めるのは誰?
あなたがキリストに似ているかどうか、確認してくれるのは誰でしょう?
「いやぁ、最近の君はキリストに似てきたね」
「あなたの今の行動はキリストのようだわ」
そのようにあなたを評価してくれるのは一体誰でしょう?
究極的には、もちろん神ご自身です。天の御使いたちも認めてくれると思います。あなたをよく知る教会のリーダーたちも認めてくれるかもしれません。
けれども、あなたを通して日々現れるキリストを識別する、もっともシビアな審査員がいます。
内から外へ
「キリストに似る」とは、自分で自分を造り直そうともがくことではありません。
自分をキリストに明け渡し、キリストによってまったく新たに造られることです(Ⅱコリント5・17)。
聖書はあなたに「変わりなさい」ではなく「変えられなさい」と命じています。
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ローマ12・2新共同訳)
「似る」とはどういうことか?
キリストに似る、とはどういうことでしょうか?
2000年前のイスラエルの生活習慣をまねたり、当時と同じ髪型や服装をすることでしょうか?
もちろんそうではありません。
外見だけ宗教絵画のようなキリスト像をまねて、白い衣を着たり、ひげを伸ばすことには、何の意味もありません。
この点は誰でも「そりゃそうだよね」と納得できると思います。
しかし、よく注意してください。
キリストに似るとは、「頑張ってキリストのような立ち振る舞いや発言をすること」ですらありません!
弟子のビジョン ―キリストに似た者―
私たちに与えられているビジョンを見ていきましょう。
けれどもその前に、一つ確認させてください。
「私たち」とは誰でしょうか?
「もちろんイエスを信じた人々のことでしょう?」とあなたは言うかもしれません。
いいえ、違います。
今から対象となるのは、ただイエスを信じただけの人々ではありません。