イエスのために迫害される者
幸せの階段の、最後を飾る9段目です。
これは数え方によっては、8段目の後半部分「8の2」にあたります。
再出発となる8段目は、2つ分の幸せ、2倍の祝福です。
イエスの言葉を見ましょう。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5・11-12)
ここでもまた迫害される者が幸せです。
「8の1」では、あなたは義の態度や行動のゆえに迫害されました。
しかしここでの迫害は、あなたが、ある人物の名前を堂々と宣言するがゆえに受ける迫害です。
誰の名でしょうか?
義のために迫害されている者
幸せの階段は、7で完成を迎える、とすでに説明しました。
しかし、「完成」は「終焉」ではありません。
まだ8段目と9段目が続いています。
この8段目と9段目はよく似てて、二つでセットです。
ですから、「8の1」、「8の2」、という数え方もできます。
まず、「8の1」を見ましょう。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5・10)
世の中では普通、攻撃されず、苦しまず、安全に過ごせれば幸せだと考えます。
しかしイエスはまったく逆のことを言っています。
迫害されることが幸せなのです。
平和をつくる者
幸せの階段の7段目に上がりましょう。
聖書では、7は完成を表す聖なる数字です。
この階段の7段目は、幸せのひとつの完成形です。
そこには、どんな幸せがあるのでしょうか?
イエスは言っています。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5・9)
幸せなのは、平和をつくる者です。
しかし、ここでもまた、世の考える平和と、神の国の教える平和とは、違います。
平和とは、分裂や争いがあるところに和解をもたらすことです。
しかし、いくら平和を作っても、普通は「神の子」とまでは呼ばれません。
国際紛争の調停に携わる政治家や、人権問題をアピールする平和運動家は、神の子とは思われません。
けれども、イエスが語った幸せの階段をひとつひとつ丁寧に上り、神から受け取り、人々に与えていくならば、世は、あなたを「神の子」と認めます。
なぜなら、あなたの生み出す平和は、世の方法ではなく、神の方法だからです。
心のきよい者
幸せの階段の、第6段目を上りましょう。
人は、美しさを求めます。
ファッションから整形手術まで、美しさを求める衝動は、際限なく続きます。
たしかに美しさは価値があります。
しかし、神の国の美の基準は、この世の基準とは違います。
イエスは言いました。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5・8)
世の中では外見の美しさが勝利の秘訣だと考えます。
しかし神の国は内面の美しさを勝利の秘訣と教えます。
心のきよさです。
あわれみ深い者
幸せのステップの4段目は、長い階段の途中にある踊り場のようなものでした。
5段目からは、階段の向きがぐるりと変わって後半戦です。
あなたは、引き続き階段を上っていきますが、ここからは、「受ける幸せ」ではなく、「与える幸せ」です。
何かを受けとることは、もちろん幸せです。しかし、もっと次元の高い幸せがあります。
それが、与える幸せです。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイ5・7)
あわれみとは、受けるべき罰を受けずに済まされる愛です。
犯罪者が刑を軽減されるのは裁判官のあわれみです。
子が財産を放蕩して帰宅しても、暖かく迎え入れてもらえるのは父のあわれみです。
あわれみは、神の人柄(神柄)の一部です。
義に飢え渇く者
引き続き、幸せへの階段を上っていきましょう。
4番目の幸せのトピックは、満足感です。
飢えることも渇くこともなく、満足した状態でありたいと、誰でも願います。
しかし、イエスは不思議なことを言いました。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(マタイ5・6)
幸せなのは、飢え渇く者です。
まだ充分ではない、と感じて求め続ける人です。
人は、収入、家の広さ、夫婦関係、地位、外見、体形など、いろいろ不満を感じています。
しかし、イエスが言っているのは、それらへの飢え渇きではありません。
義への飢え渇きです。
神の聖なる性質、神自身への飢え渇きです。
柔和な者
幸せの階段の三段目を見ていきましょう。
人はしばしば思います。何の制限もなく、自由気ままに生きることができたら、どんなに幸せだろう、と。
しかし、真理の御言葉は逆のことを教えています。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。(マタイ5・5)
柔和な者とは、「力を制御する人」です。
力があっても、それを思う存分発揮することを控える人、思い通りにならない環境でも、不平不満を言わずに静かでいられる人です。
イエスは、自由に力を発揮できる人ではなく、制限されて不自由な人が幸せだと言っています。
なぜでしょうか?
じつは、そんな柔和な人こそ、神から真の自由が与えられるのです。
悲しむ者
幸せの階段の、第2段を昇りましょう。
私たちは普通、何かを喜んでいる状態を「幸せだ」と考えます。
しかし御言葉は、またもや反対のことを言っています。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5・4)
悲しめる者こそ、じつは幸せだと、イエスは言うのです。
人は普通、悲しみを恐れます。
悲しみが近づくと、それを避けようとします。
悲しみの先には、絶望が待ち受けていると思うからです。
たしかに、世の与える悲しみは、喪失と絶望です。
心の貧しい者
イエスが語る幸せの階段の第一段は、お金持ちになることでも、大きな家に住むことでも、きれいな服を着ることでもありませんでした。
物やお金に関わることではなく、心に関わることでした。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5・3)
世は幸せを、「物やお金の豊かさ」の中に見出そうとします。しかしイエスは「心の貧しさ」の中に見出しました。
まったく正反対です。
なぜでしょう?
なぜなら、心の貧しい者だけが、天の御国の豊かさを受け取ることができるからです。
自分が貧しい者だと認めて、へりくだり、神の恵みを求めるときに御国は訪れるのです。
そのとき、あなたは世の豊かさではなく、天の豊かさを体験します。
人類史上、最高のメッセージとは、どんなものだと思いますか?
古代ローマの賢者たちの弁明でしょうか?
近代アメリカの大統領の就任演説でしょうか?
現代の大企業の社長が語る経営論でしょうか?
違います。
その後の世界の歴史を永久に変えてしまった最高の演説、それは、イエスがガリラヤ湖畔の山の上で群集たちに語った、通称「山の上の教え」(山上の垂訓)と呼ばれるメッセージです。
イエスは神の子でしたが、人となってイスラエル北部のガリラヤ地方の小さな村ナザレで育ちました。
この世の権力者でも有名人でもありませんでした。
しかし、神の国を伝える彼のもとには多くの人々が寄ってきました。
あるときイエスは、集まってきた群集と、そして弟子たちに向かって、山の上でとても大切なことを語り始めました。