花嫁選びの条件
弟子たちの個人的なビジョンは「キリストに似た者」でした。
それは、活動(Doing)ではなく、存在(Being)によって定義されます。
同じように、教会のビジョンである「キリストの花嫁」も、活動(Doing)ではなく存在(Being)によって定義されるのです。
活動が派手だ、よく動き回っている、有名になった、そういう理由で人々が花嫁の教会として選ばれるわけではありません。
十人の娘のたとえをよく読んでみましょう(マタイ25・1−13)。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。(マタイ25・5)
十人の娘は「みな」うとうとして眠り始めていました。
結婚式に付き添うことができた5人の娘も、決して目を覚まして活動的だったわけもないようです。
けれども彼女たちは、内に秘めた油注ぎは保っていました。
人格的な聖さや誠実さです。
巨大スタジアムで大伝道集会を開催して1万人を救った人なら花嫁チーム確定、というわけではありません。
なかなか思い通りにいかないとき、自由に活躍もできないとき、忍耐強く静まっているとき、それでも誠実に主を思い続け、主の御心にそった聖い生き様を続ける人、小さなことでも誠実に仕える人、彼らは油を保っています。
人生の後半生をすべて牢獄で過ごした勝利者たちもいます。
キリストが私たちと結婚するのは、働きではなく存在そのものを愛しているからです。
時間、お金、知力、体力よりも、自分自身を神に捧げきっている人を主は求めているのです。
花嫁選びは、会社の採用面接ではありません。
「よし、この女性は炊事も洗濯も家事も掃除もできる。学歴もあるし、事務処理能力も高い。フランス語も堪能だからプラス10ポイント。総合一位なので結婚だ!」
こんな理由で結婚相手を決める男性は(普通は)いません。
「この女性はいつも私を思ってくれる。私を愛してくれている。私の願う美しさがある。ぜひ結婚したい」
これが正常な花嫁選びです。
働き者で能力があるから結婚するのではなく、可愛くていとおしいから結婚するわけです。
それがキリストから見た教会のアイデンティティです。
花婿が花嫁を喜ぶように、
あなたの神はあなたを喜ぶ。
(イザヤ62・5b)
花嫁は、キリストの命によって新しくされた弟子たちの聖さの結晶です。
そして花嫁が美しいほど、夫は栄光を受けることができるのです。
結婚式では、美しい花嫁が周囲から絶賛されますが、そのとき花婿は心の中で鼻高々に言います。
「この美しい花嫁は、僕のものだよ!」
教会の美しさは、キリストの栄光なのです。