主ご自身を知る
「自分の召しが分かりません。どうすれば分かりますか?」
と言う質問がしばしばあります。
召しについて聖書から学べば学ぶほど、「それで、いったい私の召しは何ですか?」という焦りが生まれがちです。
これは御言葉を学ぶときにありがちな「落とし穴」です。
御言葉によって真理や原則を学ぶことは大切ですが、それ以上に大切なのは、御言葉を通して主イエス自身を知ることです。
召された道を歩むための確実な方法は、常に道であり真理であり命である方と出会い続けることです(ヨハネ14・6)。
船が夜中に航海するときは、目の前の航路は暗くて見えません。
けれども北極星だけを見つめて、それに向かっていけばまっすぐ北に進めます。
人生で迷路の中にいるようなときも、あなたは自分の前に置かれたいろいろな扉(可能性)を開きたくなるかもしれません。
無理矢理いろいろな扉を開いて進むほど、さらに入り組んだ迷路に入り込んでしまいます。
そんなときは視点を高くあげて、主を見上げましょう。
主イエスはあなたが道を分からずに悩んでいるとき「何をすれば良いのか」とか「あなたにどんな召しが用意されているか」よりも、もっと教えたいことがあります。
「主である私が誰であるか」です。
昨日よりも、ほんの少し、主ご自身についてさらに知る。
それを積み重ねていくとき、あなたは知らず知らずのうちに、行くべき道を進んでいます。
優れたコーチが、球技の苦手な小学生にキャッチボールを教えました。
「いいかい、キャッチできなくてもいいから、ボールの縫い目がどちら向きに回転しているかだけ見分けてごらん」
言われた小学生は、自分に向かってふわりと投げられるボールの回転を見分けて「これは...右!」「今度は...左!」と伝えます。
何度か繰り返していると、いつのまにかこの子はきちんとボールをキャッチできるようになってきました。
ボールを「キャッチする」のではなく、「よく観察する」のです。
召しもこれと同じです。
召しを受け取ろうとするのではなく、主を知ろうとするのです。
召命を学ぶとは、つまり、神自身の性質を知ることなのです。
あなたの人生を背負い、運んで下さる主を知ることなのです。
わたしに聞け、
ヤコブの家と、イスラエルの家の
すべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。
(イザヤ46・3−4)